2008.01.13 病腎移植に見る生命倫理学の非倫理的な傍観性

宇和島徳洲会が最終結論公表11例中9例は「容認」「適応あり」 (1/2ページ)2008.1.12 20:57 産経新聞

病腎移植は不適切であるとともに適切でもある。二項対立する部分とそうでない部分がある。
「病気の内臓を移植するとは何事か」という批判は、病腎移植が不適切であるとすることの最大の根拠であり、肯定できるが、同時に全肯定することはあまりにも素朴すぎると考える。
生命倫理学の主流である見解は、直感に頼る一般的感覚と変わらないなんら学術的ではないものであり、簡単に倫理的でないことを述べることができる。
移植がない限り、健康であることができない患者に対してという前提を無視しない限りは、移植の方法のみに着目して非難することができない。
当然に前提が良いものであれば方法が正当化されるわけではない。
健康体を取り戻すためにどんな方法を用いてもよいとはいわないが、個別の方法に批判することに終始し倫理を語ることは即時非倫理的である。
不当な方法に対して批判することは、その方法に限られた倫理的態度であって、健康体を取り戻すという前提であり全体であることには無視しているからだ。
これは自分の思弁的主観的に過ぎない意見を述べることを慎むことと自分の意見を述べないことの混同からくるこれを客観的態度すなわち科学者のあるべき姿勢とする傲慢さであり、僕はこれを「客観性を装った傍観性」であるとして非難する。
前提であり全体であるものに触れることができないことから、意見する、議論するに先立ち、これを拒否する予防線を貼る独善でしかない。これは超主観であってなんら科学的ではない。

病腎移植によって大きな病気が小さな病気に変わるのであれば、健康体に戻ることではないが、健康体に戻ることの性質により近いために消極的ながらこれを容認する。これを批判する生命倫理学の主流派=現状維持派には、代行案もなくミクロな視点を持つがこれが近視眼的主観によるものであるために、マクロな視点から見た前提と全体について言及することは期待できない。
容認の条件は、摘出される側も移植される側も相当な知識を知ること、自由意思によって決断すること。法律はこれを義務とする支配を行うことが保障となるためにこれを行うべきであって、傍観性に過ぎない全否定は本来法律の仕事ではない。

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2008.01.12 新テロ特措法成立。似非保守自民党にも小泉的詭弁の民主党にも攻撃する。
来月に給油活動再開 新法案 参院否決、衆院再可決へ 2008年1月11日 東京新聞夕刊

 民主党の輿石東参院議員会長は十一日午前、与党による新法案再可決に対抗するため、一時検討していた福田康夫首相の問責決議案の参院提出について、今回は見送る考えを記者団に明言した。

問責決議案は、年金問題など複数回にわたり出すチャンスがあったこれを行わなかったのは故意であることに気がついた。
今まで、民主党を支持する気持ちがあったために、問責決議案を出すことを願っていたが・・・
民主による対案を見ればわかる。
小沢氏のISAF参加案は多くの国民に批判されたにもかかわらず、これが修正された形で入っていること。
結局のところ、民主党にとって小沢氏は必要であるから、小沢氏の主張を飲んで組み入れるだけでなく、小沢氏が自民党との連立に執着したために問責決議、解散、選挙など行えなかったのではないかと。
民主党は与党と対立しながら、党内でも対立があるということ。

新テロ対策特措法案 民主対案審議入り 2007.12.27 21:30 産経新聞

また、人道復興支援活動を行う地域を民間人に被害が生じない「抗争停止地域」としている点に関し「住民の生命、身体に被害が生じない地域を同国内に特定することは困難だ」と述べた。

タリバンとアフガニスタン政府との和解を前提に貢献すれば、小沢案にある武力行使の必要性=武力行為=違憲=批判の根拠が無くなるというものだったと思う。
こんなもんはいつかの小泉氏が、イラクの非戦闘地域がどこか尋ねられて「自衛隊の行くところ非戦闘地域→非戦闘地域は自衛隊が行く」という循環論法で正当化を図り攻撃されたものと同類である。
小泉氏の場合は、非戦闘地域は現在テロがないところであるが、テロがいつどこでも起こりえることから、証明不可能であることだが、民主党案は「タリバンとアフガニスタン政府との和解→アフガン支援でも武力行使の必要性なし→タリバンとアフガニスタン政府との和解が必要」という循環論法で正当化している。しかし、方法であるどのように和解するのかが不明で成り立っていない。
どちらも自分が考える結果が欲しいが、前提が攻撃されたために前提を結果に都合のいいように摩り替えたものの、前提と結果の途中、過程である方法に言及していないという不始末である。

与党の新テロ対策特別措置法など客観的にはなんら新しくない。
イラク戦争への転用疑惑、すなわち不法行為があるのにもかかわらず、これを今後避ける根拠がないままに、不法行為が行われる可能性を含んだまま、この現実的不備をよそに、テロとの戦い、国際貢献、国益という用語を立て並べ抽象化し自分たちに都合のよい主観的な新しさのみでしかないものを作り上げた。
国際貢献という名の主体性を欠いた親米追従非日政策は、アメリカによる占領以降、支配下にある奴隷国家としての答えである。
自民党は首尾一貫して改憲政党を名乗り、保守政党とも名乗るが、改憲せずとも親米追従、改憲案の内容はアメリカ様との集団的自衛権行使という、一見公平な関係にするように見せかけたものであり、イラク戦争のようにアメリカの自己中心的報復戦争のようなもにまで加担させられる恐れを払拭できていない。
アメリカという世界一の自由主義国家を名乗る利己主義的個人主義国家はヨーロッパの本来的保守思想とは相容れない存在であるから、共産主義国家や左翼思想へのアンチテーゼから相対主義として保守を名乗るだけの皮相的な似非保守に過ぎないと考える。
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2008.01.12 自己中国による教育への不正な介入は抽象的侵略である
「台湾島」と表記の地球儀、学研が販売中止 1月11日4時56分配信 産経新聞


「不適切な表現・表記がありました」と謝罪した上、「グループ経営の観点から、指導・監督をより徹底していく」


学研、「台湾」ない地球儀を販売 中国の圧力で (1/3ページ) 2008.1.10 01:13 産経新聞

 学研トイズは「当初は日本の学校教科書同様の表記をするつもりだったが、工場が中国にあり、中国政府から表記を変更しないと日本への輸出を認めないと迫られた。すでに注文が殺到していたので、仕方なく中国政府の指示に従った」と説明している。


事実上、この会社は自己中国(正式名称・自己中心的国。略称自己中国。一般に普及している中華人民共和国は自己中国側が勝手に中華思想という空想から広めているだけのもので、実質的に自己中心的国家であるから抽象的な国名もこれが正式である。)に人質にとられており、この判断はしかたがないと考える。
しかしこれで終わりではない。販売することが不当であるから販売しなければよいというわけではない。
なぜ仕方がないのか。
一企業が国に勝てるわけがないからだ。
ならば国が出ればよい。
日本国は日本国のためにある企業を保護するのは、自由主義経済を否定する行き過ぎた介入とは言えず、当然行われるべき保護主義の原理ではなく、国民国家の原理による行動である。
あまりにも頭にきているため混乱している。
話が前後する。
学研が中国にあること自体を批判してほしくない。
日本の経済路線では、日本よりも安く作ることができる中国に工場を置く必要があり、決して親中などという政治思想を根拠にしているわけではない。
中国は日本の政治家などが気に食わない行動をとると、軍国主義への回帰などという批判を行うが、台湾やチベットなどに対する圧力は現在進行形で軍事的、すなわち、彼らが批判する軍国主義を思わせるものであり、自己中心的かつ自己欺瞞である。
今回の教材への介入は、日本という他国の教育への介入、抽象的侵略である。このことからも日本政府は当然に何らかの行動をとる義務がある。
自由放任主義である経済政策、体制であるからといって、企業が販売停止という方法で商売を自粛することまでも自由放任・・・放置するのは、自由主義的経済を否定するものであって、政府自ら無政府主義の姿勢をとることであるからあってはならない。
同じことは今後も起こりうる。そのたびに企業が販売停止で我慢すればよいというわけではない。自己中国はこれでより自己中心性を高めるだろう。
日本政府は今回の個別の件と国民国家として全体的意味合いも含めて正式に抗議するくらいのことをする必要がある。
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2008.01.12 今枝弁護士による福岡三児死亡事故への見解を批判
危険運転致死罪の適用せず 2008年1月9日(水) 弁護士・未熟な人間・今枝仁・・・裁判員になる皆さんの刑事弁護への理解のために

酩酊が原因で前方もよく分からない状態だったり、回避行動がとれない状態であったというのであれば危険運転致死罪の適用の可能性がありますが、前方不注視が原因で、事故までは一応運転をこなしていたし事後の罪証隠滅行為も合理的(正しい行為でないとしても)になしているというようなところから、危険運転致死罪に問うのは困難、と理解可能です。

わき見運転とは何かということを考えてみてください。
わき見運転とは正常な運転でしょうか。
技術的に正しいかということを問うのではありません。心理的問題です。
わき見運転という前方不注視は前方を見ることで正確な運転が可能であるという通常の感覚がそのときに欠如していたことを表現する客観的証拠です。

前方を見て運転することが事故を回避して運転することを言うために、回避行動を採れたという解釈にはいたりません。

通常=正常な運転ができていたかどうかという客観性のある運転の解釈ではなく、一応は運転できていればと定義を広く取るのは、自己の論理を肯定するための独善的予防線です。
それがどんな運転であるか問われています。
わき見運転を根拠に事故原因としていることと矛盾します。

問われているのは運転中の状態です。運転中と事故後は変化があってもおかしくないために事故後の状態から運転中の状態を予測することはできません。

運転中から事故後の変化とは何か。
運転中に正常な運転ができていないほどに酩酊状態にあっても、事故とは正常に前方に進行できていないために起こり、この事故を起こしたという突然現前した現実を自覚することとは、運転中との変化を自覚することですから、運転中の酩酊している状態から酩酊していない状態になり罪証隠滅行為を冷静に行うことは可能です。

アルコールの摂取量という数値と事故との関係に科学的根拠のある式があるそうですが個人差を無視したものであるために似非科学です。このために科学ではなく論理的に思考して書いたつもりです。

遺族も法律問題については一定の理解をされている様子だったのが、救いでした。被告人が事故後、救援行動をとろうとせず証拠隠滅に走った点は、まったくもって許し難いですが。

遺族が理解しているかどうかはわかりません。
あまりにも不当な判決と解釈する強いショックを受ければ、このショックを拒否するために・・・諦めから理解したとしている可能性もあります。
また、遺族が認めればよい、遺族が認めなければ悪いという判断は誤りです。
当事者である遺族の意見は、われわれその他大勢の意見よりも尊重される権利を持つように思えます。
しかし、遺族とは、不要な事故の前にはわれわれ部外者と同じくその他大勢の一部に過ぎませんでした。
このために、われわれその他大勢は、今後、被害者、遺族、加害者という当事者になる可能性があり、現在進行形でまったくの部外者ではありません。多くの人がこの事件に関心を持つのはこの可能性を感じるからではないでしょうか。
遺族の意見を聞かない排除的な態度をとり続けた歴史から、正反対の遺族の意見をすべて正当化することも同じ誤りであると考えます。
また、遺族の意見が自分の意見とが同じであるから自分の意見がより客観的に正当化されるという解釈には首肯しません。
たとえば死刑制度に対しても、すべての遺族に同じ解釈、意見があるわけではなく、自分に都合のよい遺族の例を持ち出して正当化する行為には批判的です。
民主主義の原則からいって、多数派の意見が肯定されます。しかしこれも真理が見えるまでの間の暫定的なものであり、多くの批判を行うことでこの批判に当たらないものを作ることが必要であると考えます。

私が被害者代理人で関与した危険運転致死事件は、飲酒酩酊の上、高速を出して、赤信号も全部無視して走っていたというもので、誰がどうみても、「そんな運転をしていたら、人の生命・身体に危険が生じていることが分かるだろう。」という、故意犯と呼んで差し支えないような事案でした。

この福岡の件と無関係な前例からこれに沿わない福岡の件に対し何らかの判断を行う前例主義解釈は否定します。
「高速を出して、赤信号も全部無視して走っていたというもの」が、誰がどうみても、「そんな運転をしていたら、人の生命・身体に危険が生じていることが分かるだろう。」であることが肯定されるから、他の件が誰がどうみても、「そんな運転をしていたら、人の生命・身体に危険が生じていることが分かるだろう。」ではないという結果を導き出すことは論理的にできません。
例を出すと、高速を出して、赤信号も全部無視して飲酒運転しながら銃を通行人に向かい乱射するという、「高速を出して、赤信号も全部無視して走っていたというもの」よりも誰がどうみても、「そんな運転をしていたら、人の生命・身体に危険が生じていることが分かるだろう。」度合いの高いものがあれば、「高速を出して、赤信号も全部無視して走っていたというもの」は誰がどうみても、「そんな運転をしていたら、人の生命・身体に危険が生じていることが分かるだろう。」ではなくなるのでしょうか。
前例を参考にしつつ、それを妄信せずに個別の案件をしっかり見定めなければいけません。
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